《職場の教養に学ぶ》
お題:風土を知る
2025年9月22日(月曜)
【今日の心がけ】地元への愛着を深めましょう
砂川昇建の思うところ
石垣島は亜熱帯地方ですので、パイナップルやサトウキビの栽培が盛んです。サトウキビはインド・東南アジア原産で、中国を経由して琉球王国に伝わったといわれます。16世紀頃には沖縄本島で栽培が始まり、18世紀には八重山(石垣島や西表島など)にも広まりました。琉球王国は薩摩藩の支配下(1609年以降)にあり、中国や日本との中継貿易で黒糖は重要な輸出品となった。琉球は薩摩藩に年貢や黒糖を納めさせられ、島ごとに「黒糖割付」というノルマが課せられました。→ これは農民の生活を圧迫し、米づくりよりも黒糖生産が優先される「黒糖地獄」と呼ばれる状況を生み出しました。明治以降、沖縄は日本本土の経済システムに組み込まれ、砂糖商社や製糖会社が石垣島にも進出。農民は換金作物としてサトウキビを作り、商人に依存する関係が強まりました。→ この意味では、確かに「経済植民地」のような構造があったといえます。黒糖生産のノルマや換金作物偏重で、米不足や飢饉に苦しむことが多く、特に八重山では19世紀に大きな飢饉が何度も起きました。石垣島のパイナップル普及の歴史です。パイナップルは南米原産で、17世紀以降に世界各地へ広がりました。日本では19世紀末に台湾経由で入ってきます。台湾総督府が植民地経営の一環としてパイナップル産業を育成したことが大きな背景です。台湾は1895年から日本の植民地となり、パイナップル缶詰産業が急速に発展しました。沖縄は台湾に近く、同じ亜熱帯気候だったため「適地」と見なされました。台湾人や台湾で経験を積んだ技術者・商人が八重山(石垣島を含む)に入り、栽培技術や加工法を伝えました。これにより本格的に普及しました。戦後、台湾との直結は途絶えましたが、沖縄(当時はアメリカ統治下)では「パイナップル缶詰工場」が建てられ、外貨獲得の手段として大規模に栽培されるようになります。サトウキビと同様に、パイナップルも加工工場や流通を握る業者に依存する「契約栽培」の形が多く、農民は価格決定権を持ちにくい立場でした。戦後の一時期は「パイナップル景気」と呼ばれる繁栄もありましたが、価格の変動や過剰生産による打撃も大きく、必ずしも安定した幸福な暮らしではありませんでした。
著者 砂川昇建




